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願いを叶えるのは、分け御霊の心      1989年1月5日

  

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  1. 心がトラブルになった時          P.1/3
  2. 分け御霊の心を作れば、すべて叶います     P.2/3
  3. 心を作ることが、本当の信仰    P.3/3

1.心がトラブルになった時      P.1/3

いつも心のお話、こういうお話を楽しく聞けるようになると素晴らしいんですよね。


去年は変化の年でしたね。今年からますますいろんな面で大変なことが起きると思います。


この間元旦祭のときに、霊示で地鎮祭の場面が出ましたと言ったんですけど、ちょっと言い洩らしまして、地鎮祭っていうのは地縛霊を鎮める行事ですね。このことを言わなかった。


ですから、今年は地縛霊の作用がとても働きかける。


それと同時に、巳の年というのは、悪い心を持てば非常に悪くなる。良い心を持てば、非常によくなる。


巳というものは、そういう働きをするんです。蛇とか狐とかは、非常に通力が強いんです。


ですから巳の年ですから、たとえば恨みの念とかね。そういう念を切る場合は、弁天様におすがりいたします。


そういう激しい念力ですから、反対にこの念力をいいことに活用すればすばらしくなる。


だから、あなた方が今年こそは私の御教えを守って、真剣に神心を復活させれば、すばらしいあなた方になれる。


要するに完全なる神の子になれる。


完全なる神の子になれれば、絶対に救われるんです。


皆さんは宇宙の大霊の分身なんです。だからそういう心を作ることによって、絶対に守られるんです。


それと同時に、これ里の行なんですけど、日常茶飯事の生活の中にいろんなトラブルがございますよね。


トラブルって争いだけじゃないですよ。


喜びもあれば悲しみもある。苦しみも痛みもある。全部トラブルですね。


そういう中で自分の心をどう持つかということが行なんです。


悲しいときに、悲しいの虜にならないで、どういう心を持ったらいいのかという冷静な己、要するに客観的に見つめた己。


絶えずそれが身に備わるようになれば、幸せになれるんですよ。


喜びのときにも有頂天に喜ぶんじゃなくて、楽しいときがあったときには、自分だけ楽しいんじゃなくて、


そういうふうに自分がとても恵まれてるときには、恵まれないかたたちにまで及ぼして、あのかたたちも恵まれればいいがなと、そういう慈悲の心、博愛の心ですよね。


そういう心を持ったときに、初めて心が生かされるんです。初めて修行が叶うわけです。里の行が叶うわけです。


また、憎らしいと思う相手がいたら、まず己を振りかえって、


なぜ自分はこんなに相手を憎むんだろう… 自分にも非があるんじゃないか…


そこまで冷静に考えられる己を作ることですね。


逆に憎まれてるのであれば、その原因は何であるか、冷静に考えられる人間にならなくちゃいけない。行なんです。里は行なんですよ。


そして、病気で苦しいときに、ただ苦しい苦しいじゃなくて、もっと苦しんでる人のことも考えてやることです。


そうすると、自分の苦しみがさほどに苦しくなくなってくる。


私は何故こういうこと申し上げるかというと、


自分でも長年、この里の行、要するに何十年間の中で、病気もずいぶんしました。貧乏もしました。人から恨みも受けました。


また人からホントに恵まれることもありました。


そういう中で私は、ひとつひとつ振りかえって考えてみると、そのたびにね、心を使っていました。


たとえば、食べ物でも、今ありあまってますね。何でもないものはない。


そうしますと、食べ物が残ると、私は大東和戦争にあった人間ですから、どうしても戦争を超えた人間は、捨てたがらないですね。


私たちは戦争で食料がなかった。毎日毎日さつまいもとかじゃがいもとか、粟とか麦とか、私はコーリャンも食べました。


麦ご飯だってね、皆さん、お米の中に麦を少し入れたご飯のことを想像するでしょ。そうじゃなかったんですよ。


私は戦地に行ってる夫に対して、お米を残そうと思って、麦ばかりのご飯を2年間食べました。


それしかなかったんです。でもとても楽しかった。


あ、お米がこれだけ残ったな。帰ってきた主人に早速に食べ物に困らせないで済むな。闇の買い出しにやらなくても済むな。


そういうふうに私は考えました。だから麦のご飯を食べてるときでも、決して苦しくなかった。


ところがはたの目は違うんですね。


私は田舎に疎開しておりまして、私のなさぬ仲の母が、照ちゃん、そんな麦ばかり食べてたら体こわすよ。


戦地行った人間はいつ帰ってくるかわからないんだから、帰ってきたら帰ってきたときのことだよ。配給米ぐらい食べなよ。そう言われました。


でも私はその時に、お母さん、あんまりおせっかい言わないで。私はこの麦のご飯食べることがとっても楽しいんだから。


お米が、あ、これだけ残ったなって思うことが、とても楽しいんだから。


私には私の生活があるんだから、お母さん、注意しないで。


そう言って、それ以来母は何も言わなかったです。


そういうふうに、麦のご飯を食べることも楽しい。


だからね、私、思うんですけど、どんなに貧しい生活の中にも、絶えずそういうふうに、はたを思ったりすると、


とてもささやかな質素な食べ物も、むしろとっても楽しく食べられるんですよね。そういう体験をしたんです。


それとか、お金のない話はもう散々しましたけど、朝、目を覚ましたとたんに、千円札が天井にちらつくんですね。


そのくらいに、三年間一銭もお金が入らなかった。


その時は、私、着物一日2枚縫いました。それで生活を補ったことありました。でも生きるってことに対して心を使ってましたからね。


それと同時に、一家心中も考えたことありましたよ。


恩着せがましい話になっちゃうんだけど、私たちだけが死ぬならいいけど、何の罪もない子供たちを道連れにするなんて、


なんて情けない、人間として恥ずかしい、非常にあるまじき所業だなと思いました。


だから絶対に子供のためにも死ねないな、どんなことがあっても一家心中なんてとんでもない。


何が何でも生きなくちゃ、この子供たちを世の中に送り出すまでは、どんなことがあってもがんばらなくちゃと、やっぱり真剣に考えました。


でも毎日の生活の中で、そういうふうに絶えず他を思いやって、それで考えて、質素な生活してるのは、ひとつも苦しくないんですよ。


自分だけのことを考えて苦しんでると、とても苦しいんですよね。皆さん、そこによく気がついてごらんなさいませ。


そういうふうに何もない生活の味わいもしました。


それで、そういう中で私は心を作らせていただいた結果、今は何ひとつ不自由いたしません。今何か買おうと思えば買えます。無理しないでもね。


もし私がそういう苦労しなかったら、それこそ乱費するでしょう。


かつてはゆかた1枚で過ごしたこともある。そういう人間ですから、買いあさるっていう気持ちには絶対なれません。もったいなくてね。


ところが、私この里の行で、つくづく思わせていただいてるのは、


与えられるのは自分たちで作るんじゃないな。


神様から与えられるんだなということを、よーくわからせていただきました。


神様は与えるんですね。どうしても身につけなくちゃならない、そういうきっかけを神様は与えてくれるんです。


だからつくづく人間は、自分で財を作って残すとか、自分で作るんじゃないんだな。


全部神のお与えだなと、いろんな角度から見て、どう考えても、つくづくそう思わざるをえないんです。

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