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- 心がトラブルになった時 P.1/3
- 分け御霊の心を作れば、すべて叶います P.2/3
- 心を作ることが、本当の信仰 P.3/3
1.心がトラブルになった時 P.1/3
いつも心のお話、こういうお話を楽しく聞けるようになると素晴らしいんですよね。
去年は変化の年でしたね。今年からますますいろんな面で大変なことが起きると思います。
この間元旦祭のときに、霊示で地鎮祭の場面が出ましたと言ったんですけど、ちょっと言い洩らしまして、地鎮祭っていうのは地縛霊を鎮める行事ですね。このことを言わなかった。
ですから、今年は地縛霊の作用がとても働きかける。
それと同時に、巳の年というのは、悪い心を持てば非常に悪くなる。良い心を持てば、非常によくなる。
巳というものは、そういう働きをするんです。蛇とか狐とかは、非常に通力が強いんです。
ですから巳の年ですから、たとえば恨みの念とかね。そういう念を切る場合は、弁天様におすがりいたします。
そういう激しい念力ですから、反対にこの念力をいいことに活用すればすばらしくなる。
だから、あなた方が今年こそは私の御教えを守って、真剣に神心を復活させれば、すばらしいあなた方になれる。
要するに完全なる神の子になれる。
完全なる神の子になれれば、絶対に救われるんです。
皆さんは宇宙の大霊の分身なんです。だからそういう心を作ることによって、絶対に守られるんです。
それと同時に、これ里の行なんですけど、日常茶飯事の生活の中にいろんなトラブルがございますよね。
トラブルって争いだけじゃないですよ。
喜びもあれば悲しみもある。苦しみも痛みもある。全部トラブルですね。
そういう中で自分の心をどう持つかということが行なんです。
悲しいときに、悲しいの虜にならないで、どういう心を持ったらいいのかという冷静な己、要するに客観的に見つめた己。
絶えずそれが身に備わるようになれば、幸せになれるんですよ。
喜びのときにも有頂天に喜ぶんじゃなくて、楽しいときがあったときには、自分だけ楽しいんじゃなくて、
そういうふうに自分がとても恵まれてるときには、恵まれないかたたちにまで及ぼして、あのかたたちも恵まれればいいがなと、そういう慈悲の心、博愛の心ですよね。
そういう心を持ったときに、初めて心が生かされるんです。初めて修行が叶うわけです。里の行が叶うわけです。
また、憎らしいと思う相手がいたら、まず己を振りかえって、
なぜ自分はこんなに相手を憎むんだろう… 自分にも非があるんじゃないか…
そこまで冷静に考えられる己を作ることですね。
逆に憎まれてるのであれば、その原因は何であるか、冷静に考えられる人間にならなくちゃいけない。行なんです。里は行なんですよ。
そして、病気で苦しいときに、ただ苦しい苦しいじゃなくて、もっと苦しんでる人のことも考えてやることです。
そうすると、自分の苦しみがさほどに苦しくなくなってくる。
私は何故こういうこと申し上げるかというと、
自分でも長年、この里の行、要するに何十年間の中で、病気もずいぶんしました。貧乏もしました。人から恨みも受けました。
また人からホントに恵まれることもありました。
そういう中で私は、ひとつひとつ振りかえって考えてみると、そのたびにね、心を使っていました。
たとえば、食べ物でも、今ありあまってますね。何でもないものはない。
そうしますと、食べ物が残ると、私は大東和戦争にあった人間ですから、どうしても戦争を超えた人間は、捨てたがらないですね。
私たちは戦争で食料がなかった。毎日毎日さつまいもとかじゃがいもとか、粟とか麦とか、私はコーリャンも食べました。
麦ご飯だってね、皆さん、お米の中に麦を少し入れたご飯のことを想像するでしょ。そうじゃなかったんですよ。
私は戦地に行ってる夫に対して、お米を残そうと思って、麦ばかりのご飯を2年間食べました。
それしかなかったんです。でもとても楽しかった。
あ、お米がこれだけ残ったな。帰ってきた主人に早速に食べ物に困らせないで済むな。闇の買い出しにやらなくても済むな。
そういうふうに私は考えました。だから麦のご飯を食べてるときでも、決して苦しくなかった。
ところがはたの目は違うんですね。
私は田舎に疎開しておりまして、私のなさぬ仲の母が、照ちゃん、そんな麦ばかり食べてたら体こわすよ。
戦地行った人間はいつ帰ってくるかわからないんだから、帰ってきたら帰ってきたときのことだよ。配給米ぐらい食べなよ。そう言われました。
でも私はその時に、お母さん、あんまりおせっかい言わないで。私はこの麦のご飯食べることがとっても楽しいんだから。
お米が、あ、これだけ残ったなって思うことが、とても楽しいんだから。
私には私の生活があるんだから、お母さん、注意しないで。
そう言って、それ以来母は何も言わなかったです。
そういうふうに、麦のご飯を食べることも楽しい。
だからね、私、思うんですけど、どんなに貧しい生活の中にも、絶えずそういうふうに、はたを思ったりすると、
とてもささやかな質素な食べ物も、むしろとっても楽しく食べられるんですよね。そういう体験をしたんです。
それとか、お金のない話はもう散々しましたけど、朝、目を覚ましたとたんに、千円札が天井にちらつくんですね。
そのくらいに、三年間一銭もお金が入らなかった。
その時は、私、着物一日2枚縫いました。それで生活を補ったことありました。でも生きるってことに対して心を使ってましたからね。
それと同時に、一家心中も考えたことありましたよ。
恩着せがましい話になっちゃうんだけど、私たちだけが死ぬならいいけど、何の罪もない子供たちを道連れにするなんて、
なんて情けない、人間として恥ずかしい、非常にあるまじき所業だなと思いました。
だから絶対に子供のためにも死ねないな、どんなことがあっても一家心中なんてとんでもない。
何が何でも生きなくちゃ、この子供たちを世の中に送り出すまでは、どんなことがあってもがんばらなくちゃと、やっぱり真剣に考えました。
でも毎日の生活の中で、そういうふうに絶えず他を思いやって、それで考えて、質素な生活してるのは、ひとつも苦しくないんですよ。
自分だけのことを考えて苦しんでると、とても苦しいんですよね。皆さん、そこによく気がついてごらんなさいませ。
そういうふうに何もない生活の味わいもしました。
それで、そういう中で私は心を作らせていただいた結果、今は何ひとつ不自由いたしません。今何か買おうと思えば買えます。無理しないでもね。
もし私がそういう苦労しなかったら、それこそ乱費するでしょう。
かつてはゆかた1枚で過ごしたこともある。そういう人間ですから、買いあさるっていう気持ちには絶対なれません。もったいなくてね。
ところが、私この里の行で、つくづく思わせていただいてるのは、
与えられるのは自分たちで作るんじゃないな。
神様から与えられるんだなということを、よーくわからせていただきました。
神様は与えるんですね。どうしても身につけなくちゃならない、そういうきっかけを神様は与えてくれるんです。
だからつくづく人間は、自分で財を作って残すとか、自分で作るんじゃないんだな。
全部神のお与えだなと、いろんな角度から見て、どう考えても、つくづくそう思わざるをえないんです。
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