1. 真心の表現 P.1/6
2. 村八分 P.2/6
3. 何を言われても P.3/6
4. 無言の行 P.4/6
5. 土用の行 P.5/6
6.「正しい」 = 実行 P.6/6
4.無言の行 P.4/6
そのうちに今度は、一生懸命拝んでると、「無言の行だよ、鶴田さん」って、こう出るんです。
無言の行って出ると、しゃべっちゃいけないんです。そうするとね、2時間、南無妙法蓮華経って拝むと、20分休憩時間がある。
その休憩時間のときにね、隣りのかたから、「鶴田さん、今日はいいお天気ね」って言葉をかけられたの。
休憩時間だから、よいお天気ねって言われたんだから、私はツンボでもなけりゃオシでもないんだから、返事するのが常識だからと思ってね、
「そうね、よいお天気ですね」と、言ったの。
そうしたら、鶴田さん、あんたしゃべっちゃいけないんだよって、怒鳴られたんですよね。
それで世話人がサーッと来てね、鶴田さん、あんたダメよ、しゃべっちゃいけないのよって、
ああそうですか、どうもすみませんって、謝ってね。でもその時、思いましたよ。私はオシでもなきゃツンボでもないと、
よいお天気ですねって言われて、知らんぷりしてたら、こんな失礼な話ないんじゃないかと、無言の行と出たら、この道場はそんな失礼も顧みず、平気でやらせんのかしら。
ずいぶんおかしいなあと思いながら、どうもすみませんって言ってたの。
これは私の間違いだったの。そういう心でもって、そこに絶えず自分があるでしょ。
私はオシでもなきゃツンボでもない。自分があるでしょ。これ、いけないんですよ皆さん。
私は常識を守ったんだ。【私】だ、やっぱり。
私は常識を守った。【私】があるんですよ。
それが何で悪いのよと、みんな自分本位なの、考えてることが。
皆さん、気がつきません?考えてること、全部自分本位なんですよ。
だから人間は知らぬ間に犯せる罪って言葉があるけどね、自分では正しいと思っていても、そういうふうに間違ってることがいっぱいあるんですよ。
私はその時に、そこに気がついた。無言の行で初めて気がつかせていただいた。
だってホントにオシでもなけりゃツンボでもない人間が、そうですねって返事しないぐらい失礼なことないんじゃないかって、これ常識ですよね皆さん。そう思いません?ね、だから、それ正しいと思うでしょう。
ところが、それは正しくないんです。というのは、自分があるからです。
行ってのはそういうもんじゃないんです。要するに、なんて言ったらいいんでしょうね。完全なる無心にならなくちゃいけない。
絶えずその肉体人間の意識の自分があったんじゃね、行じゃないんです。
やれ、失礼だとか、常識のない人間になっちゃうんじゃないかとか、そういうこと考えるの、みな自分でしょう。
自分がそこにあるから常識がないとか、いろんなこの心が閃いてくるわけでしょう。己があるからよ。
無言の行って出たら、無心に無言の行やればいいんですよ。それが、自分は自分は、自分が自分がって入ったんじゃ、無心じゃないんです。
ここのとこ、よくわきまえてくださいよ、行ってものは。
それで私は、その無言の行の時に初めて、なるほどな、修行というものはそういうものか。
神様のメガネにかなわせていただくのは、やはり完全なる己のない、要するに完全なる無言の行じゃなくちゃいけないんだ。ということに気がつかさせていただいたの。
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