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石の上にも三年 ― 心 眼 ―  1988年10月12日

  

1. 真心の表現           P.1/6
2. 村八分             P.2/6
3. 何を言われても         P.3/6
4. 無言の行            P.4/6
5. 土用の行            P.5/6
6.「正しい」 = 実行         P.6/6

2.村八分       P.2/6

たとえば、20分づつ南無妙法蓮華経って、そこは拝むんですよ。で、20分休憩があるんです。


その休憩の時間にね、世話人さんがお茶とお菓子を持ってきてくれるんです。


ところが、あの人は先生に、ああいう事言って、先生に楯突いた人だと、こう思うわけですよ。


だから私のところへはお茶もくれないの。お菓子も、こう回しても、私の顔見ると、隣の人に飛び越して、さあどうぞってやる。


私のとこはお菓子もなけりゃお茶もくれないですよ。でも、それはいいんです。お茶もお菓子も別に欲しくないから。


でも皆さんがもらってるのに、私一人だけが飛び越してっていうのは、もうね、こうやって普通にこういう姿勢はできませんよ。


もう下向いてるほかないですよ、みっともなくて。それがとっても辛くて、ホントに情けないなと思いましたよね。


だけどなぜ私がそんな思いまでして、それをやり通したかというとね、うちに帰って、自分で考えたことは、


相手がホントにこの神様ってありがたいなあって、真実信じる心に対して、まず私は考える。それで、神様を考える。


先生のお立場を考えてきて、それでご注意したことが仇になって村八分にされてるわけでしょう。


そうやってお茶もくれなければ、いろんな意地悪が始まるわけですよね。


それに対して私はね、神様を祀ってあるところで、そういうことが行われていいのかしら、ああいうこと言っていいのかしらって、実は思ったんです。


決して私は自分の欲で、これを注意したんじゃなくって、周りのことを考えて、周りがよかれと思って注意したことなのに、それがこんなに意地悪されるなんて。


その時考えたことは、ああそうかと、人間ってのはね、正しいこと知ってるだけじゃダメなんだと
行えなくちゃ何もならないんだと。


それで、自分はこれが正しいと思ったら、徹底的に行ってみたらいいんじゃないか。


どんなに意地悪されても、まさか殺されやしないだろうから、徹底的に恥かかされてみたらいいじゃないの。


私が正しいこと知るだけじゃダメで、正しいことを実行しなさいと、神様が言うのであればね、


石の上にも三年ってことわざあるから、三年間は辛抱してみましょうと思ったの。


それで、三年間はね、どんなに相手から意地悪言われても、決してそれに逆らうまいと思ったの。


そして何でも、ハイと、申し訳ございません。この言葉以外にはもう一切出すまいと、自分で腹を決めました。


そして三年間、それやっても、なおかつね、あちらのそういう意地悪な姿勢が止まらなかったら、
これで神も仏もないもんだと、私は思いましょうと決めました。


その時点から私はもう神様も仏壇も祀らないことにしましょうと、一切、神、仏はないもんだと私は思いましょうと、そのくらいの勝負をしてみましょうと、


せっかくやる信仰だったら、ホントに神、仏があるのか、そこまで見定める信仰をしましょうと、私は心に誓ったの。

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