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石の上にも三年 ― 心 眼 ―  1988年10月12日

  
  1. 真心の表現           P.1/6
  2. 村八分             P.2/6
  3. 何を言われても         P.3/6
  4. 無言の行            P.4/6
  5. 土用の行            P.5/6
  6. 「正しい」 = 実行       P.6/6

1.真心の表現      P.1/6

私がまだ修行している時ですよね。
日蓮宗の品川支部というところで、村八分にされましてね。ずいぶん意地悪されたこともありますよ。


そこは毎日通うとこですけど、足に鎖をつけて行くような気持ちで行きましたよ。


今日はどういうふうに恥をかかされるのかな… 今日はどういうふうに意地悪されるのかな…


そう思いながら行くときの気持ちはね、もうなんとも言えなかったけれども、


でも私、その時誓ったことは、神様の場所だから、いくら村八分にされても、私の行為は、


結局、会員さんのことを思い、また神様のことを考え、またこちらの先生のことを考え、みんなそういう人たちのことを考えて、それで注意したことなんですよ。


それが仇になって、こんなものやめた方がいいっていうんで、私をなんとかしてやめさせようと思って、意地悪を始めたんですよね。


私にしてみればね、神様のある場所で、みんなのためを考えて言ったこと。


それが意地悪に変わったってことに対して、そんな馬鹿なことはないはずだって、こう思ったんですね。


神様は必ず正しい者の味方なんだ。なぜかというとね、そこの道場は、たとえばですよ。


体の具合が悪いとか、商売がうまくいかないとか、みんな見えられる方は、まあ、それ以上に落ち込んでる方もいますよね。そういうことで見えてるわけですよ。


そうすると、それが叶うとね、それなりに、お菓子をお供えする人とか、お神酒をお供えする人とか、
いろんな感謝の表現があるんですよね。


そうすると、そこに世話人というのがいましてね、たとえばお菓子をお供えしてる場合、


「これじゃあ神様、受け取りませ。これに台をつけなきゃだめなんです」って世話人が言うんですよ。


それで私は、
「ああそうですか、存じあげませんでした」って言って、


そこに何がしかの、台っていうのはお金です。お菓子にそれ付けるわけですよ。


そうすると、その方はどう思うでしょうね。新しく、まだそんなに神様に対する姿勢ってものも考えてない、わからない人たちですよ。


ああ、私の病気を治していただいてありがたいなと思ってあげたお菓子でしょ。


それに対して、これじゃ神様、受け取りません。と言ったら、どう思いますか。


この方は、たぶん、あれ?と思うと思いますよ。それに対して台を付けなさいって、お金をつけなさいってことでしょ。


「なんだ、ここの神様、やっぱり欲かな」って、思うんじゃないんですか。


ああ、ここの神様、やっぱり欲かと、思った方も救われない。そういうふうに思わした方は、なお罪なんですよ。


だから、すべてがいい現象じゃないでしょ。


それと同時に、ああ、ここの神様、欲か、と思ったときに、神様に不敬でしょう。ご神徳を汚すことになるわけでしょ。


そこに霊感の先生が、やっぱりいましたよ。飲み屋さんのあがりの先生ですけど、もう立膝ついてね、煙草をふかしてる。


霊感はとても最初は鋭かったんだけど、しまいには、そういうふうだから亡くなりましたけどね。


そういう先生のご人格っていうものも、結局さげてしまうし、もっともいけないことだなあと、私は思いましてね、


おせっかいに私はそれを注意したんですよ、世話人に。


そういうこと、やめてください。その方は病気を治していただいて、本当にありがとうございますと、純粋な気持ちで真心でお菓子をあげているんですから。


そのお菓子は、その人の心なんですよと、その心を神様はいただくんですから、神様に通じるはずなんですから、どうかそれに台をつけてくださいなんていうことは、言わないでほしい。


そうしたらねえ、そんなこと言う人間がいたんじゃ、向こうは困るでしょ。もうその頃から、あちらに欲が出てましてね。


それでそういうことを言うようになったもんだから、そんなこと言う人間て邪魔でしょう。むしろいない方がいいわけでしょ。


だから、そんな者はやめさせなきゃどうしようもないということで、やめさせようと思ってかかってね、それで村八分にしたんですよ。


だから行くと、ことごとく意地悪されてたんです。

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