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- 相手を責めるのは、自分と責めてるのと同じ P.1/2
- 神様と自分の魂がひとつになる時間 P.2/2
1.相手を責めるのは、自分と責めてるのと同じ P.1/2
皆さん、ご苦労様です。
まあ私のお話は相変わらず、耳にタコができるような、でもこれが三度の食事と同じに大事なお話でね。よく肝に銘じて聞かなくちゃ。また始まったじゃだめですよ。
真理って、そうないんですけども、極めるのが大変なんですよね。そうじゃないですか?
わかってるんだけどできないのよってことじゃないの?皆さん。
何かひとつの事件にぶつかると、全部それにとらわれちゃう。だから真理を歩むってことはとても簡単なようでむずかしいですよね。
実にね、まあ、私を含めてそれを思わせていただきますけど。
先日、NHKのドキュメントで、お寺の名前忘れてしまったんですけど、ある老僧が癌で、あと3年間の命と宣告されたの。御坊さんとしては、そこの一番の、長ですね。
そしたら、その3年の間に、あれもこれもと盛りだくさんに、徹底的に自分がこの世でもって、なすべきことをやって、そして亡くなる時、悔いのない生きざま、死に方、そういう状態でこの世を去ろうという覚悟を決めてね。
それをNHKのドキュメントでやって、テレビに出てなさるっていうのは、すばらしい、めずらしいなと思いますけど、病院に行くところも映したり、また、幼稚園の子供たちが集まると一緒になってね、お遊戯するんですよ。
それでとにかくいろんな方から、老僧は癌と戦ってるんですかと聞かれて、僕は戦ってるんじゃないんだと、癌と楽しんでるんだ。ということを言ってましたよ。
すばらしいなって私、思いました。人間は、戦うっていう考え方になると、すごく自分がみじめになるんですよね。
だから癌にかかわらず、人世でもって、いろんな人間関係とか、物質関係とか、すべて、その癌と楽しむっていう心境がすべてに通じると、私は思うんですよね。
たとえば人間関係の場合でもね、相手が敵で、戦うっていうふうになると、とても苦しいですよ。だけど敵と思わないで、やはり相手と楽しむんだという考え方になったら、ひとつも苦しまないんじゃないかしら。
結局相手さんから、いろんな災難を受けたときにね、あいつがこうしなけりゃ、ああしなけりゃっていうのは、これはもう争いの気持ちですよね。
結局そういう方は、人に迷惑かけても平気でいる。ということは、相手に対しての愛がないわけですよね。
人に迷惑かける、そんな人間にまで愛なんて冗談じゃないよと、いう考え方がそこに起きてくると思いますけど、
キリストの教えでも言うでしょう。左の頬をたたかれたら右の方もたたかれなさいって。徹してこの心情までいったなら、相手がわかってくれるんですよね。
ところが相手は自分に損ばかりかけてる。自分は徹底的に相手に誠意つくしたのに、それを裏切られた。相手は自分に対してホントにいけない人だというふうに考えたときには、いつになっても、相手も変わらないかわりに、自分もどんどん落ち込んでいくんです。自分も相手と同じ線になってしまうんですね。
だからそういう念っていうものを、なるたけ持たないことが、私は修行だと思うんです。それがホントの信仰だと思うんです。
結局、その人よりも自分が一歩進んだ考え方にならないと。
自分はあいつにずいぶん力を尽くしてるのに、あいつは裏切った。俺を平気でこういうところに押し込んだ。あんなやつはね…っていうふうに考えてることじたいが不愉快でしょう。
ところが人間って愚かなもんでね、不愉快なんだけど、それを考えることが、なんだかその時の次元の、一番最高の考え方と思ってるんですよ。
最高の考え方であれば、それが結果においていい方向に実らなくちゃならないのに。
結局、相手を責めるって自分を責めてるのと同じですよね。
たとえば、陰でそれ言ってても相手には通じないんだから。自分は相手のために誠意をもってやったのに、相手は自分を裏切った。なんてひどい野郎だ、あいつホントに許せないと、そう考えてる自分はどうなんですか。
自分の心をどんどんどんどん責めてるのと同じ。自分の心がますます苦しくなるんじゃないかしら。私、そう思うんですよね。
まあ、人間だから、瞬間あんなやつはね…って、思っちゃいけないといいませんよ。思うのは当然ですよ、これは。
だけどそれを転換することが必要ですよね。それにとらわれたら、結局自分も負けです。その人間と同じ人間になってしまう。そうじゃないんですかね。
だからそういうふうに自分に対して、仇なす人。そういった人をどこまでもどこまでも恨み骨髄じゃないけども、そういう心境を自分で積み重ねていったなら、自分の心が痛むんですよね。
だからそういうときは、サラッとね、そう思わないで、ああ相手さんは自分を裏切ろうと思ってした行為じゃないんだろうけどと、善意に考えること、そこですね。これが修行だと思うんです。
そういう人間は、先祖が悪い想念を持ってるから、その悪い想念を引きずってきた子孫なんだ。だから本人は裏切りたくないんだろうけど、そういう心ができあがってしまってるんだ。またそういう運勢なんだ。
考えてみれば気の毒だなと、いうくらいの気持ちになれればね、いつまでも恨みつらつらな心はなくなっていく、切り離せるんですよ。
そのくらいの気持ちで、相手のそういう行為を受けとめられる人間になれたなら、これは悟りですよね。
そういう悟りの心境を身につけなされば、その人間ばかりに取り組まないで、もう少し広い心になれて、その人からこうむっても、ほかからちゃんとおぎなってくれますよ。
それがね、それにばかりとらわれて、あいつ、おれに損かけた、許せない。いつもそういうことばっかりやってるから、何回やってもだめなんだって、それじゃ何回やってもだめなはずなんですよ。そこから自分の心を離さないから。
そういう気持ちがなくなった時、今度は仕事のことやら、人間関係のことやら、次のいろんなことに対して転換ができるわけです。そういう気持ち、考え方で運べば、次は必ず成功します。
ところが、そのあいつ許せないっていう気持ちね、どこまでも切り離していかないと、次やる仕事もうまくいかないんです。そういう気持ち、絶対に切り離さなくちゃいけないの。
その切り離すには、相手が悪いのを切り離せって、そんなの無理じゃないかと、いう考えになるから、繰り返しますけど、その時には相手さんじゃない、相手さんがそういう悪い想念を引きずってる子孫なんだと、
先祖が悪い想念を持ってるから、自分じゃ裏切りたくないんだろうと、自分は人に対してそういう行為したくないと、人間ってのはね、人をだまそうだまそうという心、本音はないと思うんですよ。
ところが途中からね、そういう悪い想念を持ってる方々は、考え方が途中から、あ、このほうが得だ、あのほうが得だって、ソロバンをはじいてきちゃうわけ。
そうすると相手に迷惑かけても、相手に損かけても自分が得のほうがいいわって、とにかく自我ですね。そんな欲望、まちがった欲望ですね。そんな欲望で日々を暮してるの。
この人ホントにあわれですね。ホントに今にゴミになっちゃうかもしれない、そういう考え方で生きてたらばね。そのゴミになるような考え方に引きずりまわされることは、もっともバカバカしいじゃないですか。
だからゴミになるような、そんな考え方を持ってる人の、そういうことにいつまでもとらわれないで、むしろお気の毒だな、ぐらいに考えて、
そして自分はサッとそれを引きはなすように努力して、それで次の新しい仕事に心を配る。また誠心誠意でひとつのことにあたる。それのくり返しなれば、必ず仕事は成功するんです。
ところが、前の古傷をいつまでも切り離さないと、その古傷の邪念の思いが、その悪い想念が、せっかく成功させる仕事を邪魔するわけですから、どうかね、生活の中に絶対に悪い想念を作らないこと。それをまず言いたいです。
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