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神様から手を差し伸べてもらえる自分  1990年3月18日

  
  1. 何気ない行動や言葉がハマっていく     p.1/3
  2. 神様から手を差し伸べてもらえる自分    p.2/3
  3. 「でも・・・」を言わない         p.3/3

2.神様から手を差し伸べてもらえる自分    p.2/3

皆さんね、何事もないときっていうのは、人間はわりに自分の姿勢ってものを返りみない。人間にはそういうくせがあるんですよね。


そして毎日の生活の中の姿勢を、どっちかっていうと楽なほうを望むんですよ。これに負けちゃだめですよね。


どうしても人間は誘惑のほうに負けるんです。毎日毎日の生活の中で、今日1日の生活の中で、絶対に誘惑の心が働くんだから。


というのは、結局人間っていうのは、何か事件が起きるとどうやらまともになれるんですよ。事件が起きないとまともになれないの。


それで自分の考えがものすごく正当だと思っちゃってるんですね。ところが正当じゃないんです。


自分の考えっていうのは、自分に一番有利な、すごく自分に都合がいい、はたから見ると、要するに客観的に見つめると、とっても自分勝手な、そんな行為が自分はいいんだと思いこんでるんです。


そういう行為を続けてると、いつかやられるんですよ。いつか大きなお灸をすえられるんです。その時に反省してもね、もう遅いんです。


普段から、そういうふうな自分っていうものを作らないように、絶えず反省することをしてたなら、少しのことは、もしできてもね、それはすぐ消えるんです。それは、むろん自分よりかなりパワーの高い人にお願いすればね。


普段いつも主観的に自分の自我におぼれて、自我の考えを優先的に考えて、これが正しいんだっていう考えで、もし生活してるとするならば、結局それは第三者には、間違ってることは間違ってると見られるんですね。


第三者は、やっぱりすごく冷静に客観的に、いろいろ見つめますから、間違っている人なのか立派な姿勢をしている人なのか、よくわかるんです。


ところが自分ってものはだめなの。自分っていうものは主観で正しさとか正しくないとかってものを見つめるから。


主観で見つめるとね、正しくないことでも正しいように自分でもってっちゃうんです。


その正しくないことを、自分一人勝手というか自己満足というかね、あ、これでこうだから、ああだから、だから正しいのよって、自分で認めるんですよね。


そんなことを繰り返してると、第三者から見ると、あの人ずいぶん身勝手ねとか、自分のこときり考えないわねとか、すごく愛に乏しい人ねとか、


そういうふうに、もし表現をされるような自分であったなら、いつかはやられますよ。大きいお灸をすえられます。その時には、もう今度はもとに戻すのが大変なんですよ。


それで、もとに戻す修行に入ってても、そういうかたっていうのは、どうしても自我の心ってものが切りきれないからね、もとへ戻す、よい姿勢にもっていく導き方をしてあげるんだけれども、どうしてもそこへ自我が入ってくるんですね。


全部自分の都合のいい考え方で物事やれるんですから、結局その事件が起きた時には、なかなか解決しないんです。だって徹底的に自分ってものの反省ができてない。


いっくら教えられても、その時はわかってるようだけれども、自分では気がつかないままに、もう自我の心を成長させてしまったから、やっぱり自分では気がつかないんですね。


正しいんだと思いこんでしまってる心がとっても強いから、どうしてもその心に左右されてしまうのね。


それで今現在問題が起きてるんだけれども、どうしてもその間違った心が動いてしまうんです。


そして、今現在の問題がいつになっても解決しない。だから今現在の問題が解決されるためには、本当に自分が完全なる無心になって、要するに神様の心ですね。


完全なる神心を使える自分を徹底的に作っていったなら、その大きな問題は解決するんですよ。神様には不可能はないんですからね。神様は手を差しのべてくれるんです。


ところが、そういうかたっていうのは、教えられながらも、わかっているようでわからない。どうしても自我が強い。


たとえば霊感なんかの場合でも、霊感が授かって、そうするとすごく自慢らしく霊感を振りまわす人っていうのは、これは完全に天狗霊が入っちゃった。で、天狗霊が入ったら、これは絶対に出ないんです。


天狗霊を取るのはとっても大変なんですよね。この人は天狗霊によって当たることもあるんですよ。


だけど当たる以上に、何か災いを受けます。だから私は、霊感が身につくようになったら絶対に謙虚になりなさい。己に厳しくなりなさいっていうのは、それなんです。


そうしないと、なまじ霊感が出始めると、なんだか人にないものを私は持ってるんだ、身につけたんだと、そういう心がいつのまにか自分を天狗心にしちゃうんですよね。そうすると結局、天狗霊が憑いちゃうんです。


正しいお天狗様がつくならいいけども、邪霊的な天狗霊、動物霊のほうの天狗霊というかな、そういったものが憑いてしまう。


そうするとね、たまたま当たるんだけど、当たった結果が悪い結果になるということに、必ずなってくるんです。


当たればいいっていうもんじゃないんですよね。当たっても悪い結果になるんじゃいけないんですよ。


たとえば、あの人交通事故を起こす。そしたら起きちゃった。やっぱり起こすと思ったんだ。当たってるでしょう。これじゃ、いけないんです。


本当の神様の指示であったなら、ああ交通事故起こすなと思えば、ちょっと注意してあげて、それで事故が起きなかった。


まあ中にはね、事故が起きないのに事故が起きるなんておどかしてるんじゃないのか。そんなふうに受け側のほうがとったりして、素直になれないということがあるのね。


そうするとね、ちょこっとでも事故のような、何かの形を見させていただければ、あ、なるほどな、やっぱり事故が起きたんだって、わからせていただく。そうすると、まだその人は救われるんですよ。


全然見せてもらえない場合もある。そうすると、もしかしたら事故なんかなかったかもしれない。あの人の霊感は当たらなかったかもしれないな。でもそこまで考えていってしまったら、だめなんです。


だからやっぱり、教えていただいたからおかげさまでという気持ちを絶えず持って、極端な話が、神様にお願いしたから、だから助けられたんだというふうな、素直な心になったときに、初めて本当の救いに入れるんです。


やっぱり人間っていうのは、そういう素直な心を養うことが必要だと、私は思うんです。

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