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里の行・山の行 1991年1月10日

  
  1. 自然の生活の中で統一      P.1/3
  2. 本来の己の復活         P.2/3
  3. 知恵を絞って神を伝える     P.3/3

1.自然の生活の中で統一    p.1/3

皆さん、いつもこの鎮魂なされる時の、その気持ち、心の使い方がどうなんでしょう。


たとえば、形にとらわれて格好だけ作って、腹式呼吸ですることをわかっていながらも、なかなか正しい呼吸ができないとかね。いろいろなことを思って考えを巡らせてしまうとか。


そういうことっていうのは、誰も注意することがない。その中で行をしてるんですから、里の行っていうのは、非常に難しいんですよ。


いつも申しますように、山の行でしたら、滝にかかった瞬間、もう冷たいし寒いし痛いし、いろんなことでもって、何にも考えることができない。無我夢中ですよね。


精神統一っていうよりも、無我夢中の状態で統一ができるんですけれど。


だけど無我夢中で無心になるっていうことは、これは自然じゃないですよね。


自然に逆らった形で、自分の体を痛めた形でやる行でしょ。だから変な霊が入りやすいんですよ。


で、今のこの普通の姿勢の状態は、無我夢中で統一できる姿勢ではないのでね、その中で完全統一するということは、確かにこれはとても難しいんです。


でもこういう中で完全統一ができると、神様との触れあい、神様と身近なつながりできる。そういうホントに大事な時間なんです。


前にも話しましたけど、以前、神霊学会というのがありましてね。そこへ私、行ってたことがあるんです。


その会にはずいぶんいろんな方が、易者とか、それこそ神主さんとか、医学博士とか、そういう方々が集まるんですよ。


そうしますとね、神主さんが毎月滝行に行くんです。それでお弟子さんも滝行に連れていくんですよ。


その神主さんは、滝行をしなければ本物じゃないということをよくおっしゃるんです。


だから私なんかにも、鶴田先生、滝行しますか?って、こう言うのね。


いいえって言うと、じゃあまだ、あんた本物になれないな。って言われたんです。


滝にかからなければ本物にはなれないんだ。本当の統一はできないんだ。だから滝にかかれるようじゃなきゃだめなんだと。


でもこれね、心臓が悪い人とか、そういう人たち、滝にかかったらどうしましょうね。結局ショック死かなんかするようなところへ追い込まれるんじゃないかしら。


だからそういう人智で作った行じゃなくて、自然の生活の中で統一されることが、むしろ本当の行じゃないかなと、それを神様が私たちに与えてくださってるんじゃないかなと思う。


自分たちの考えで、滝にかかってね、統一しようと思ってやってれば、上からは水が落ちてくるから、もう痛いし寒いし、確かに無我夢中になれますよ。


だから、そういう無我夢中の統一っていうのは、私は完全なる統一じゃないと思う。


そんな統一してると、変な霊に憑かれたりする。それこそ天狗霊とか、天狗霊でもホントの天狗霊であればいいけど、動物的な天狗霊ですね。


要するに、自分をすごく自慢してることを、あの人は天狗だよって言うでしょう。


そういうふうに、誰にもできないことを自分はやってるんだって、すごく自分というものを過信したね、要するに自惚れ心っていうかな、


そういった心でやってる行じゃ、これは冷静な統一じゃないと思う。


でも、その行をしながらも、なおかつ里の行で心の修行してる方には、そういうことはないと思いますけどね。


ただ滝行だけに取り組んで行をしてる場合は、その行が誰にでもできるかっていうと、できない人の方が多いですよね。


それが自分はできるんだというところでね、いつの間にか自分を過信しちゃうんです。


誰にもできないものを、僕はできるんだという心は、神心じゃないですよね、はっきり言って。


神心って、やっぱり自分を絶えず下座に置ける心が神心だと思うんですよね。


だから、他の者にはできないけど、僕はできるんだっていうのは、絶対神心じゃないと思います。


私の「死ぬのは怖くない」の本の中にもうたってますけれど、絶えず自分ってものを謙虚に下座に置ける。そういう心を作って精神統一に入れる。


それこそが本当の神に接する行ができるんじゃないかなと、思わせていただいてるんですけどね。


だから滝にかかるより、むしろ難しいんですよ、これはね。


だけどいつの間にか、今言ったように、天狗が憑いちゃって、


こんなことできる者ないだろうっていうような、自分はもう最高に偉いんだっていうような、そういうふうな感覚になってしまうんじゃないかと思う。


それではね、ホントに高度な神様はお下がりにならないと思うんですよ。


やっぱり高度な神様にお下がりになっていただくには、毎日の里の行の中で、絶えず自分ってものを振りかえる。


そして神心ができる己になってこそ、初めて高い神様がお下がりになるんじゃないのかなと、私は思わせていただいてるんです。


だから人格の高い方に、やはり高い神様がお下がりになるんじゃないかなと私は思っているんですけどね。


人格の高い方っていうのは、決して自分を過信しませんし、あとから、あの方、そんな偉かったのって、傍から思われるような、自分を絶えず控えめにしてる。


それでいて、いざとなった時にはね、相手の心をホントに感銘させる。そういった所業ができる、その人格構成ですか、


それができた方には、やはり高い神様がお下がりになるんじゃないかと、私は思わせていただいてるんですけどね。

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