Instagram

私たちは大自然のひとコマ 1989年2月28日

  
  1. 歌詠みをとおして          P.1/5
  2. お背中、流しましょう        P.2/5
  3. 神様はすべての大調和を願ってる   P.3/5
  4. 山寺に光仰いで永遠の命を      P.4/5
  5. 矢が降ろうが、鉄砲が来ようが    P.5/5

3.神様はすべての大調和を願ってる   P.3/5

そういうわけで世の中っていうのは絶えず、その出版社の社長にかかわらず、すべてがそうですよね。


たとえば、私が十年前ぐらいに、テレビに出たときのことなんですけど、北海道に行ったんです。


11人のお子さんがいる中で8人死んでしまった。その原因は何であるかっていうことで放映されたんです。


そのかたは、東北の仙台のほうの人で、結局、まあ生活ができなくなって、北海道に落ちのびたんでしょう。


あの頃はまだ山を自由にできたのか、あるひとつの山へ行って、そこでその山の木を切って鳥居を作ったんですよ、縄を結わいてね。


それでその鳥居の前に、山海の珍味でスルメとかワカメとか、お野菜とか、そういうものをあげて、この木を切って炭焼きにさせていただきます。よろしくお願いしますと、山神様にお願いしたわけです。


それで全部木を伐採しきっちゃうと次の山へ行って、また鳥居を作って、そこでまた、この木を切らせていただきます。どうか何事もないようによろしくお願いしますと言って、また全部木を切ったんですね。


おかげさまで何事もなく全部木を切って、で、次の山に行って、また鳥居を作って、お願いお願い、お願いなのよね。


全部木を切ってですよ。炭に焼いて次の山へ行けるときに、おかげさまで何事もなく終わらせていただきました。山神様ありがとうございました。そういう姿勢が必要じゃないんですか。ところが、その姿勢ができていなかった。


それで11人のお子さんの8人が死んでしまった。ね、取られた。


ところがですよ。テレビ局で放映されるときに、レポーターが何て言うかと思ったら、


「へえ、神様って、ずいぶんみみっちいんですね」って言ったの。


「山の木を切って、そして次の山の木を切って、それで感謝をしないからそういうことしたって、そんな神様って根性狭いんでしょうかねえ」こう言ったの。


たぶんあなた方も、そんな考え方が、ま、ここにいる人はどうかなあと思いますけど、ほとんどの人が、神様ってそんなみみっちいかしらと思うのが当然じゃないかと思いますね。


もう少し神様って寛大なんじゃないかなって考えるんですよ。そういうのは人間の都合なの。そう思いません?


神様って、寛大だ、寛大だ、無限の愛があるんだ。そこしか取らないんですよ。


だからそんな、神様って山の木を切ったからって、全部切ったからって、感謝もしない。それでバチをあてるなんて、神様ってずいぶんみみっちいねとか、根性狭いんだねとかって言う。


そういう言葉が返ってきたときに、私は言いましたよ。


神様を、人間がそういう解釈で見つめる状態のときは、いつになったって人間は幸せになれないんだ。


人間が神様ってものを、ただ自分の幸せのために利用していくという感覚であれば、いつになったって幸せになれない。


やっぱり人間としての生きざま、そういったことが真理にのっとって生きられて、初めて私は幸せになるんじゃないかと思う。


だから山神様がみみっちいんじゃない。


ね、世の中ほとんどの方がそうでしょう。こうなればいいなあ、ああなればいいなあ。なればいい、なればいいの連続での生活で、一年一年終わらせてしまってるわけですよね。


この辺が、私は人間の生活の間違いじゃないかと思う。そういうことでなくてね、やはり神様がみみっちいんじゃないんです。神様は、そういうこと一切抜きだと思います。


これは、副管長(ご子息)とも話したんですけど、すばらしいこと言ってましたよ。


副管長が言うには、僕の言葉だと誤解を生じるから、その辺は言わないほうがいいよ。なんていう言葉が出ましたけど、でもこれ、真理を言ってるんですよね。


私もその辺はわかる気がするんで、果たしてみなさんにわかってもらえるかどうかってことは、ちょっと疑問なんですけど。


神様は決してね、人間にこういう心になりなさい。ああいう心になりなさいと言ってません。


そう言わないとみなさんに励みがつかないし、神様から言われたんだっていう感覚にならないと、何ていうのかな、すがる一つのね、頂点ていうものが、なんかぼやけてしまうでしょ。


だから私はそういう生き方じゃないほうがいいんだろうと思って、今までもそうやって話してきてますけどね。


今日なかなかいいこと言ってたのは、神様はそういうこと、一切求めてない。


ということは、大宇宙の営みそのものが神の営みであって、人間の生きざまを、こうしろ、ああしろとは言ってないんですよ。これは本当の元の真理ですよね。


だけど結局、宇宙の大自然の営みの中で、人間の歩む姿勢を幸せにするのは、やはり自分たち人間の生きざまなんです。


自分たちの生きざまがそうなったとき、要するに、真理の道に近づいた歩み方をした人ってものは、完全にプラスになってます。マイナスの人生にならない。


神様はとにかくすべての大調和を願ってるんだから、人間の世界でもやっぱり和が整うということを、大調和ですね。ということを願ってると思う。


だから和が整うってことは、お互いに理解しあい愛しあって、自分のことばかり考えないで相手様のことを考える。


そこで初めて、その和というものが保てるんじゃないかと、そういう考え方がこの人間社会ってものを幸せにしてくんであって、


自分自分っていうふうに、調和ってことを一切考えないでね、自分の幸せ感っていうかな、そういったことに翻弄されて、それでこんにちまで来てしまったから、争いは絶えない。争いが絶えないからお互いに傷つきあうしね。


結局、人間が勝手に、その調和の道をはずして、こんにちまで苦しんできたんだろうと思うんですよね。


だから、なんていうのか、私たちは大自然のホントちょっとの息吹なんだと、要するにひとコマなんだと、絶対そうなんだと、


だからやっぱりそういう生きざまって、とってもすばらしいということを、まず自覚して、それが本当の生きざまであってね、


ここで禊ぎをして鎮魂をして、魂が高まってくれば霊界に行っても高いとこに行ける。これは事実ですよ。


でも根本的原因、原理とすれば、やっぱり私たちの生活そのものを、大自然の営みのように調和を合わせていけば、ひとつも狂いなく、人間の苦しみってものも全然なくなるんじゃないかな。苦しみは自分たちで作ってんじゃないかな。つくづくそう思わせていただきましたけど。


こんな言葉は果たしてみなさんに通用するかどうかなあと思って、今言ってるんですけどね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました