- 先祖は私たちの過去 P.1/2
- 神様は絶えず自分のそばにいる P.2/2
1.先祖は私たちの過去 P.1/2
今日はウィークディなので、お勤めのかたは来られない。
でもこうやって皆さんのご修行の姿を見てますと、だいたいランクが、こう、神様から見てね、分けられるように思われます。
今、浄霊祈願を終わらせて、皆さんのいろいろなご先祖様の悪い想念を取り除いていただく行事ですね。
まあとにかく、ご先祖様がホッとする時間だと思います。
ホントによかったな。うちの子孫が私のおかした罪を、神様にひとつひとつお詫びして拭ってくれているんだな。ありがたいなって、そういうふうに、皆さまのご先祖様はおっしゃっております。
ですから、あなた方がご先祖様に孝行してるそのお姿、ホントにすばらしい姿なんです。
そういうふうにね、何でも自分の行動を客観的にとらえて、己の姿を冷静にジーッと見つめて、
それで今自分が何をしているのかっていうことをお考えになると、今の浄霊祈願は、ご先祖様に一生懸命孝行してる、修行ですね。
こういう積み重ねが、皆さんに幸せをもたらすんです。そういう積み重ねを得ることによって、あなた方が神様からいただいたところの分け御霊に近づく、そういう大事な時間なんです。
そういう大事な時間も、細かく分析して考えてなければ、ああご先祖様が喜んでくれるんだ、すばらしい時間を作ったと意識できない。
そういうすばらしい時間を作ったんだという人と、見過ごしてる人、どっちが幸せにつながるかということを、よく考えて、
自分の今の行いそのものが、果たして、これでよかったんだっていう満足感なのか、
あるいはこの時間に間に合わないで来られなくて、ああこういう都合があるから仕方ないやなのか、
仕方ないやという考え方でおさめた場合に、心のどこか隅に、人間は神の子である以上は、なんとなく後味が悪いという気持ちが残るはずです。
でも先祖様は声を出して文句言いません。神様も声を出して怒らないから、皆さん平気なの。
神様の子であるから神様につながってる。先祖があって私たちがあるんですから、先祖様にもつながってる。
だからなんとなく、心のどこか隅に一抹のさびしさ、私はそう表現したいんですけれども、もうこれでいいんだって言いながら、心のどこか隅に、なんかちょこっと穴が開いてるはずです。
そういう積み重ねをしていったら、何のための皆さんは修行をしているか、修行というのは行いを修めるとうことですね。
とにかくね、人間同士なら声を発するから、怒られればすぐわかるんだけど、先祖も神様も人間の声を発しないからわからない。
わからないんだけれども、不思議なことには、心のどこか隅に、なんとなく後味が悪い。
やっぱり人間は神の子なんですよね。と、私は思います。ご先祖様のためにきちんと浄霊祈願なされてる方は、よかったなと、ひとついいことしたなと、
そこまで具体的に考えないとしても、なんとなくさわやかじゃないんですか。
あ、なすべきことをやったっていうようなね、なんとも言葉で言いつくせない、
豊かな心っていうか、安心な心っていうかな、そういったものをお持ちになるはずですよね。
反対にそれができなかった方は、できない理由をいろいろ頭の中で並べたてるけど、
並べたてながら、心のどこか隅に、これでいいんだ、これでいいんだと無理に押しつけて、
押しつけるということは、自分のやってることが、なんか正しくない、一抹の不安がある。
だからこれでいいんだ、これでいいんだと、無理に押しつけてる形。とても重っ苦しいですね。
そういう行いによって、人間の魂の次元がね、神様からいただいてる魂の次元に近づくのが、それだけ遅れるわけ。
それだけ遅れるということは、救われる道が遅れるということなの。
人間っていうのはおかしなものでね、いつも申しあげるけども、大きな災難が自分のところにやってこないで、たとえば飛行機が墜ちました。
え、500人も乗ってたの。ああ大変だねえ。え、坂本九ちゃんも乗ってたの。
へえ、なんだね、かんだねって騒いでて、まるでひと事のような気持ちで、そういう事件を見つめてますよね。
だから、なんか私そういう事件があるたびにね、ひと事のように見つめる姿ってものは実にあわれだな。
それがわが事のように見つめられる人間にならなくちゃいけないと思うんですよね。
前にも話したんですけど、私が戸越というところにいましたときにね、電気屋さんが見えて、電気の部品を入れてもらってたの。
そしたら武蔵小山の方に火事があって、そうすると火事の合図がありますよね。あの時なんだったのかな、半鐘だったかな。
わあ火事だーっていうんでね、それで2階に上がってベランダのところへ出て、一生懸命になってね、その火事を
「ハア、よく燃えてるわあ、おお気持ちいいように燃えてるわあ」って言って喜んでるんですよ。
そして、「あのね、わしゃ火事大好きなんですよ」って、こう言う。
ところが自分の家だったんですよ。人間ってあわれですね。それが人の家だと思うから、その家事を見て、
「わしは火事が大好きなんですよ。火事があると真っ先に現場駆けつけるんだ。とにかく、あの燃えてるのは何とも言えないですね」なんて喜んで言ってたんですよ。
それで、自分のうちが燃えてるのに、よく燃えてんなって一生懸命感激して見てるんですよね。あわれですねえ。
で、帰ってみたら自分の家が丸焼けになっちゃって、何にも跡形もないと、いうようなね、ホントこれ笑い事じゃないんですよ皆さん、はっきり言って。
人間ってそういうふうに身勝手なんですよ。飛行機が墜ちるのを、わしゃ見るのが好きなんだ。なんて、そこまで極端じゃないかもしれないけどね、
やっぱり人の災難は、わが事じゃなければ、あんまり苦にしないんですね。
ところが、魂がある程度神様からいただいた分け御霊になりますと、要するに神心になれるんですよ。
そうすると人の災難が自分の災難のような、そこまでの感情になれるんです。要するに慈悲の心ですよね。そうならないと本物じゃないんです。
そういう心にならないと、皆さんの心は、要するに三次元の肉体人間をとおしたところの、欲望の塊の人間で一生を終わってしまう。
とにかく災難がわが事のように感じられる人、そしてなおかつ喜びもわが事のように喜べる人、他人の喜びをですよ。
こういう魂の次元の人間にならなけりゃ、ホントは幸せになれないんです、はっきり言って。
そういう魂の人間に、私は皆さんになっていただこうと思って、先祖の犯せるいろんなね、
というのは、ご先祖様は霊界で悔やんでるわけです。ああいうことやってきて悪かった、こういうことやってきてすまなかったと。
先祖があって我があるんだから、先祖は私たちの過去なんですよ。
その悔やんでるのをひとつひとつね、ご先祖様に成りかわって、浄霊祈願で過去の謝罪に入ってるわけですよね。
その過去の謝罪を真剣に行うことによってご先祖様は満足する。過去が満足する。
今の浄霊祈願をして、あ、よかったなって満足する気持ちと同じなの。
先祖とつながってる己だから、先祖が満足することは己が満足することなの。
すべて切り離しちゃいけないんです。過去、現在、未来ってのは一貫してるんです。
過去の先祖が満足し、今の自分の魂の次元が、人の喜びをホント己の喜びのように心から喜べる人間。
人の悲しみを己の悲しみのように真剣になって悲しめる人間。
こういう魂になってこそ初めてね、もう神様の心に近づいてる状態ですから、その心というのは。
だから皆さんの未来は、これは必然的に幸せな未来になれると確信を持って私、言わせていただきます。
そんなすばらしいことを、ホントにこういうささやかなところで、皆さんの先祖に対する真心を、一生懸命になって行動に運んでるわけですよね。すばらしい時間なんです。
そのすばらしい時間を皆さんは生かしたんだから、ホントにホッとするでしょう。さわやかになるはずですよね。
やっぱりそういう積み重ねをしていかなければ、本当の幸せ感というのは得られないんです。
本当に幸せ感を得られますとね、もうその体の外にまでその幸せ感はにじみでます。
だからそういう幸せ感を持ってる方というのは、はたから見ても、あの人幸せそうだなと、外側にもはっきりわかるような状態に見えてきます。
そういう人間になったときには、これ、神と一体化してる。同行二人って言葉がありますけど。
生き神様って言葉、よく言われるけれども、三次元の欲望の世界で、完全に生き神様の心になれるかといえば、それはね、やっぱり生き神様にはなれないです。
でもそういう心を養おうという努力をしようという気持ちにはなっております。
だから皆さんも、今、私が申しあげたような、そういう満足感を心にひとつひとつ積み重ねることによって、だんだん神様に近づくわけです。
どうかね、生き神様にはなれないけれども、皆さん全部神様から同じ魂をいただいてるんですから、
この三次元を他界するまで、神の子としてふさわしい所業の連続を続けていったならば、
おそらく肉体人間から魂が離れる瞬間というものは、非常に満足感と、なおかつさわやかで、なんとも言えない心境で肉体から離れることができると思います。
そうじゃない生き様をした人、ただ物質人間のいろんな現象にとらわれた生き様のほうにばかり重点をおいて、世の中を生きてきた人というのは、
おそらくその時に、こうしておけばよかった、ああしておけばよかった。私はちょっとこういうところが、そういう悔いが絶対残ると思います。
そう言うと、今の火事の話じゃないけれども、それはもう遠い先のことだから、そんなのはどうでもいいのよと、そういう人に限って、それがますます自分を不幸せな方に追い込んでいくんですね。
自分ではね、幸せだと思ってるのかもしれないけれども、でも私は心のどこか隅で、やっぱり一抹のさびしさってものはついてまわると思います。そういう行いをしてきた人間てのはね。
だから本当に幸せ感というものをつかむ人間になるには、いつも申しあげるように、
神様のお心、まず素直、そして他に愛を持って、信じる心を養って、そして謙虚に、なおかつ己に厳しくと、こういう心をね、絶えず養う努力をしていくことが、この世に生まれてきた所以なんです。
この世に生まれてきた所以とは、それが皆さんの使命なんです。
この世の中でもって、財を築いたり名誉を築いたりすることが、皆さんの使命じゃないんですよ。
それが証拠には、そういうものはこの世を去るときには霊界まで持っていけないんです。
物質はこの世であなた方が修行するためにあるんです。名誉もね、実は修行するために置かれてるんですよ。
その中でどっちを取るか冷静に考えたときに、肉体人間が望んでる、希望してる、楽しんでる、そっちを求めるか。神様からいただいてる魂の次元の心の喜びを取るか。
そのどちらかでね、ホントの喜び、ホントの幸せ感というものが、そこではっきりできてしまうわけですね。
物質の世界を追いかけまわすと、この喜びといういうのはね、結局無駄なんです、はっきり言って。
どっちみち空回りしてるの。全部この世に置いていくものを一所懸命追っかけまわして、それで空回りして終わってしまうの。
それで死ぬときに、ああこれじゃ、こんなはずじゃなかったなぁで死ぬんですよね。
だから今度は自分が先祖になったときにね、この地上にいろんな悔いを残してる。
その悔いがまた子孫にバトンタッチされて、子孫がそれだけ修行が大変になってくるわけです。
だから子孫の繁栄を考えたら、やっぱり大事なこの一時を、二度と得られない一時ですよね。今日一日は二度と戻ってこないんですよ。
この一時をホントに生きがいのある、あ、これでよかったんだって自分の心に幸せ感というか、安心感というかな。
そういった喜びの心が燃えるような時間に、皆さんがなされたなら、それが結局幸せのほうへ移行する積み重ねなんです。
この浄霊祈願というのは、先祖が残した諸々の悪い想念を清める時間。
そしてなおかつ鎮魂は、皆さんの分け御霊の魂を復活させるために一生懸命になって精神統一する。
精神統一は何であるかというと、宇宙の大霊、宇宙の無限とした生命体、私たちの命もこの生命体のほんのひとコマなんですよ。
そのほんのひとコマの命が、完全に統一に入れたときには、宇宙の無限のエネルギーの中にスポッとはまる。
そうすると、その時の自分の気持ちというのは、なんだか自分の魂ってものが、ものすごい無限大に、何とも言えないね、なんて言ったらいいんだろう。
言葉で言いあらわせないんですけどね。もう極端な言葉で言えば、なんだか自分が大宇宙だという感覚に、言葉にするとそういう表現になっちゃうんですけどね。
おこがましい、なんかバカに自惚れるような表現になっちゃうんですけど、そんな己になっちゃうんですよ、その瞬間というものは。
この宇宙そのものが全部己という感じになっちゃうんですよね。
そういう時間をつくることが、皆さんに不可能がなくなる、実はとてもすばらしい時間なんです。
あの六根清浄の祝詞に、「この世で叶わざることなし」って歌っていますけどね。ほんとにその時間ってものは不可能がないんです。
すべてが全部可能になるんですよね。そりゃそうでしょう。だって自分のひとコマの魂が宇宙の大霊の中にサッと溶け込める状態っていうのは、ものすごい無限の命、無限の力が、そこにあるんじゃないですか。
その無限の力に自分の力が加わって一緒になるんだから、無限大の力をそこで発揮できるわけでしょう。
だから、皆さんにそういう魂を作っていただくことが当霊照会の目的なんです、はっきり言って。
そういう魂になりますとね、皆さんひとりびとりがみんな神の子になる。ということは、霊的な人間になれるわけです。
霊的な人間になれることは、あえてあの人は霊能者ねってことじゃなく、皆さん全部霊能者になれるんです。
全部が神の子の魂の次元までいけば、いろんなことが、他人のことまで、あらゆることがわかってくる。
それがわかると同時に、自分の方向定めが絶えずいい方へ循環してくんです。
そういうふうな皆さんになっていただこうと思って、私は真剣に取り組んでるんです。
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