2.里の行 P.2/4
だけど振り返ってみますとね、私が本当に心を開いたのは、要するに真理を極めたものと言ったらば、
過去の私は、何回も話すように、もう生まれながらに、母親が3歳のときに死なれて、継母に2度かかって、
それから結婚しても、主人のお母さんがいて、姉さんが来て、後家、姑、二人抱えて、とにかく大変な人生だったんですけどね。
そこへ持ってきて、今の男の人と昔の男の人ってのは違いますから、
昔の男ってのは、嫁しては夫に従えとか、また親の言うことは白いが黒いでも聞けとか、そういうことを昔の男は言ったんです。
だから私がお嫁に行ったときには、お母さんが、どんな無理なことを言っても、絶対、親に服従ということを強いられたわけです。
今の世代ではそういうこと、通らないですよね。そういうふうに生活の中でもずいぶん修行はさせられました。
いつも言うように、お金のない修行もしましたし、恥をかく修行もしましたし、
お風呂屋さんの場面ね、何回も何回も頭をさげて、最後とうとう、向こうから背中を流してくださいって、そういう姿勢がでるまで私は辛抱したり、
そういうふうに生活の中でも、人間関係、また物質関係、そういうことで、ずいぶんいろいろ修行をさせられました。
あなたがたも実は毎日毎日、生活の修行といったら、あるはずなんですよね。私だけじゃないんですよ、これは。
自分の毎日の生活を修行にもっていけるか、なんとなく毎日を過ごしてしまうかだけの差なんです。
まあ、私なんかの場合は、特に辛かったんでしょう。だから今考えてみると、修行というふうに置きかえられたのかなって思いますけれど。
毎日の生活の中で、満足だ、満足だっていう生活はしてないはずなんです。必ず不満のことがいくつかはあるはずですよね。
ところが、その不満のことがあるから修行ができるんですよ。不満のことがなかったら、修行ができないんじゃないですか。
もし何もかもが自分の思い通りに、人生を毎日過ごしたとすれば、これは修行じゃないですよね。
その不満に負けるか、さもなければ、その不満を活かすか。活かしたときに初めて修行になるんです。
これ活かさなかったとき、修行じゃないんです。その不満を活かさなかったときには、結局、人生の落伍者です。私はそう思いますよ。
結局、一生泣いて暮らすんですね。
そして、肉体人間である以上、物質である以上は、この物質の世界から、やがては離れるときがくるんです。
それまで、不満、不満、不満のね、一生で終わってしまったとしたら、これは行じゃなくて、本当になんのためにこの世の中生きてきたんだろうと、
そういう生きざまのかたの場合を振り返ってみたときに、私の考え方からすれば、そんな不満、不満の毎日の生活で、
そしてこの世を果てるなんて、ずいぶんつまらないなあ、なんのために生きてきたんだろうって、私は思いますけどね。
でも、どうですか。その不満、不満の状態のときに、おそらくそういう心が、なかなか生まれてこないと思う。とにかく不満のことばっかり頭の中がいっぱいだと思うんです。
せっかく今も鎮魂をなされて、魂が清まる、なおかつ高まる行をなされた。
そういうことに取り組んでるんだから、それにつらなって毎日の生活の中に鎮魂の姿勢ってものを取り入れることがホントの修行だと思うんです。
これ、里の行というんですよね。
だから、その里の行、毎日の生活の中に、鎮魂は鎮魂で別と考えないで、鎮魂が終わっても、帰るその時の鎮魂の姿勢ってものを絶えずいろんな形でもって、私生活に取り入れることが、ホントの修行だと私は思うんです。
皆さん、取り入れてますか?おそらく切り離してると思いますよ。
ここへ来ての作業は、まず座禅を組んで、合唱して、精神統一。
まあ時間までの間に完全に統一できる人は、この中で何人いるでしょうね。
正座して統一してるんだけども、足が痛くなってきた、手がだるくなってきた。なんかいろんなことが頭の中に浮かんできた。
それで終わってしまう方のほうが多いんじゃないかなと思うんです。
それは何回も繰り返すように、あなたがたに修行の心が身についてないから。修行っていうのは何であるか。
行を修めるって書く。その行を修めることを、あなたがたが徹底的に、絶えず心の中に刻みこめばいいんですよね。
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