1.本当の行 P.1/4
暑いですけれども、クーラーが入って、いいですね。
振り返ってみると、私が伏見稲荷の品川支部というところで修行しているときは、土用のさなかでも周りを閉め切って、そして、皆さんそれぞれ大きなタオルを1枚用意してきて、
それを敷いて、「土用の行」という名目だったんですけど、2週間ぐらいズーッとね、その時は1時間、今あなたがたがなさってる、その鎮魂の姿勢なんです。
実は私がやってきた鎮魂は、最初から少なくても30分、ときに応じては40分。ホントは1時間、私はいつもしたんですけどね。
そしたら、副管長が7年ぐらい前に勤めていた会社を辞めて入ってきたときに、
自分も一緒に鎮魂をやった結果が、そんな時間を続けて正座をしたら、もう途中で足が痛くなったり体がつらくなったりして、精神統一どころじゃないということを体験して、
それで、自分で実践してみて、これなら誰にでもできるだろうと考えたのが、今、あなたがたに普及してるこの鎮魂の姿勢なんです。
ですから最初10分間正座、で、ちょっと立ったりしてね、そしてまた10分間、
要するに、鎮魂っていうのは完全なる統一ができないと、何にもならないんですから、長い間の鎮魂の姿勢だと、途中で疲れて、その気持ちをなくしてしまう。
それを少しでも精神統一に近づけるようにということで、今の鎮魂の流れを副管長が生みだしたんです。
もともと私がやった鎮魂っていうのは、とにかく1時間座ってて、
そして土用の行のときには、一番暑い1時から2時のときに、冷房なんて入れてないんですよ。
全部周りを閉めちゃって、とにかく暑い、まるで蒸し風呂に入ってるような状態だったですよね。
だから、みんな大きなタオルを持っていって、それを敷いて、そこで精神統一したんです。
はっきり言うと、そこまでの姿勢で真剣な統一ができれば最高なんです。
本当に完全なる精神統一っていうのは、なかなかできかねるんだけれども、そこまでの鎮魂をしたときに、
苦しくて脱落するか、その苦しみを乗り越えるか、どっちかなんですよね。
苦しみを乗り越えた人が、完全なる鎮魂ができたんだと思います。
ですから、私の場合は、あの本にも書いてございますように、伏見稲荷の品川支部っていうところに、あなたがたと同じように、いち信者として行ってたときのことですよね。
そのときの鎮魂は、南無妙法蓮華経と唱えながら、とにかく1時間のお祈りをするんです。そこでは鎮魂とは言ってません。
そこは法華稲荷なんですね。だからそこの先生は身延さんにもお参りするんですよ。伏見稲荷の品川支部長でもあったんです。
それで、なんて言ったらいいんでしょうね。
要するに、先生自体が経営者のような心になってきてしまったんだろうと思うんですね。
ですから最初は、非常に霊感も、まぁ、当たるって言葉、あんまり好きじゃないんだけど、その表現しかないですから、霊能者の表現っていうのはね、今までのはですよ。
だから、その先生のは、すごくよく当たったんです。それで、わりに人が行ってたんです。
ところが、だんだん人が集まると、その先生が、やっぱり修行が徹してなかったのかなと、今になって振り返ってみると思いますけれども、
結局、要するに欲がでてきて、救われようとして来てる方々が、たとえば病気のことで来る方、商売のことで来る方、子供さんのこと、人間関係、いろいろありますよね。
それが実ると、それぞれが、たとえば、お菓子をあげる、お神酒をあげる、果物をあげる。いろんな形で感謝の姿勢を表してたの。
そして、見てますと、世話人さんというのがいましてね、
「これじゃ通りませんよ。これに台をつけなければ通りません」というんですね。
果物だけでは通りません。お菓子だけでは通りません。お酒だけでは通りません。確かにその通りなんです、実はね。
その通りなんですけど、たとえばですよ、お彼岸やお盆でお寺さんに、先祖供養のお願いに行って、お経をあげてもらいますね。
そうしますと、自分のところでおはぎを作って、そのおはぎだけを持っていきますか。
やっぱりおはぎに、何らかの気持ちを添えて、台ですね。台を添えてあげるんですよね。確かにそうなんです。
でも、新しく来た方々がですよ。
「ああ、おかげさまで、ここの神様のおかげで病気が治った。ありがたいなあ、何をあげようかな」
そう思ってあげるものは、それが果物であろうが、お菓子であろうが、お神酒であろうが、その人の心の象徴ですよね。真心の形じゃないですか。
その真心の形であげてるものなんだから、それに対して、神様は品物を受け取るんじゃないんですよ。心を神様はいただくんですね。
心を認めるんです。あなたがたの心を。
だから、「ありがたかったな」と思って、果物をあげる。その人の心ですよね。お菓子であげたいなと思うのも、それもその人の心だったの。
だから初心者の人たちの場合には、その姿勢でしていれば、だんだん、長く来ているうちに、神と人間とのふれあいっていうのは、こういうものなんだということを、教えられてからであればね、納得したのかもしれません。
そういう教えがいかないうちに、新しい方に、
「これでは通りませんよ。これに台をつけなさい」
もしそう言った場合に、新しく来た方々の場合はね、
「なんだ、台をつけろって、やっぱりお金をあげるのか。私はこれを病気が治ったから、気持ちであげさせていただくのに、これだけじゃ済まないのか。ここの神様、やっぱり欲じゃないか」
もし相手が、そう思ったときに、普通は絶対思いますよね、最初の方々は。
そしたらね、結局これはもう信仰ではなくなってしまうんです。それで、そう思った方も救われないんです。
また、来る方々がそう思うっていうことは、公に考えれば、その品川支部では神様のご神徳を、それだけ新しい人に正しく評価させないことになってしまうわけです。そういう不足の気持ちで、台をつけた場合にね。
それを私、とても疑問に思いまして、ご注意したんですよ。
その人の真心であげるものですから、どうぞ、それに台をつけてくださいということは、一切おっしゃらないでください。本人の心であげるものですから、どうぞそれだけにとどめてくださいと。
それが仇になってね、まあ鶴田ってのは、品川支部には益になる人間じゃないと、いうことで、それから村八分にされたんですよ。
私の本の中にも書いてあると思いますけど、あの村八分になってからの行で、本当の行というものは、こういうものなんだなっていうことを、私は初めてつかんだような気がするんです。
だから、じゃあ今、私がそれを教える立場でおこなったらって思うんだけど、なんだか私はまだ、修行が足らないのか、それとも私におさがりになっている天之御中主大神様という神様は、そういうお役ではないのか、
つらい修行だから、ホントの修行ができたんだなって、自分では思わせていただいてますけれど、さりとて、うちに来る方々に、あの修行をすすめる気持ちにはなれない。
私が品川支部でおこなった、あんな村八分にされた修行は、あなた方には、どうしても私はさせる気になれないんです。
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