鶴田先生の本等から抜粋したものです (投稿文の一部の説明のため、抜粋しています)
- グラマン戦闘機のこと 鶴田照子 著「死ぬのは怖くない」早稲田出版 より抜粋 P.1
- 「天之御中主大神を祀れ」の啓示 鶴田照子 著「死ぬのは怖くない」早稲田出版 より抜粋 P.2
1.グラマン戦闘機のこと -死を目前にしてハンカチを振った私-
長男の勝洋が生まれて間もなく、主人は応召を受けて入隊し、外地へと派遣されました。戦争はますます激しくなってきており、空襲の噂も飛びかっておりました。
私は幼児を抱えて、実家のある深谷というところへ疎開しました。そこには父と三人目の母とがいましたが、私たち親子をあまり暖く迎えてはくれませんでした。
私は、親が面倒を見てくれないのなら、行商でも何でもして、この子と二人生きのびようと考えて暮らしておりました。
そんなある日、汽車で一時間ほどのところへ食料の買い出しに行きました。
いつ空襲警報があるか分からない時でしたが、子供にひもじい思いをさせたくない一心で、二歳の子を背中におぶって、どこまでも続く畑の中の一本道を歩いておりました。
突然、向こうの空から敵のグラマン戦闘機が約三十機ほどの編隊を組んで、こちらに向かってくるのが見えました。
とっさに身を隠そうとしましたが、あたりは木立ひとつさえない一面の麦畑です。隠れる場所など、どこにもありません。
もはやこれまで、この畑の中で私は死ぬんだ、と思いました。
殺すなら殺しなさい。それが運命ならば、私はちゃんと受けとめて立派に死んでいこう。息子と一緒なら怖くはないわ。
ああ、でもせめて、最後の時ぐらい、誰かに「さようなら」を言い残したい。この地上の人間として、誰かに最後のお別れをして、それから地球を去ってゆきたい————–私は痛切にそう思いました。
でも誰が? こんな畑の中の一本道、見渡すかぎり誰もいません。
いいえ、いたのです。グラマン戦闘機のパイロットたちが———。
敵国のアメリカ人ではあるけれど、立派な大人たちが———-。
気がついたら、私は夢中になってグラマンに向かってハンカチを振っていました。死に臨んでの、それが私の別れのサインでした。
グラマンは、おそろしいスピードで一直線に私に向かって突っ込んできました。私は背筋を伸ばして立ち、グラマンをじっと見すえながらハンカチを振り続けました。自分でも不思議なほど冷静でした。
すると、どうしたことでしょうか、飛行機だけが私の目の前を飛び去っていきました。プロペラの風圧がはっきり感じられるほどの近さでした。私は操縦しているパイロットのピンク色の顔をはっきり見ました。
先頭のグラマン(たぶん隊長機)が発砲しなかったせいでしょうか。二機目、三機目のグラマンも機銃掃射せずに飛び去ってゆきました。
ここで機銃で撃たれて死ぬと覚悟していた私は、半ば呆然と飛行機を見送るだけでした。
ずっと後になって、この話を他の人にしますと、
「ハンカチを振っているのを見て、白旗をかかげて降伏しているのだと考えて、敵さんは撃たなかったのでしょう」などと言う人もいました。
たしかに、グラマンはそう受けとったかもしれませんが、私には降伏するなんていう気持ちが全くありませんでした。
なぜなら、主人は南方へ行って、生死も分からぬ戦いに明け暮れているはずなのです。銃後を守る私が、勝手に降伏するわけはないのです。
私はただ人間らしく「さようなら」を言って、それから地上から消えてゆきたいと思っただけです。
その「さようなら」を告げる相手が、他に誰もいなかったので、グラマンのパイロットになってしまったのです。
不思議に死ぬことを怖いとは思いませんでした。背中に幼い子をおぶったおりましたが、この子と一緒に射ぬかれるのなら、どこで死んでもいい——と、とても冷静だったように記憶しています。
ともあれ、戦争末期のこのグラマン体験は、私にまたひとつ新しい目覚めを与えてくれました。
それは、どうやら自分は、あまり死を恐れない人間かもしれないという自覚でした。この自覚は、のちに、ひどい食糧難や思い心臓疾患に直面したときに、ますます強くなっていくように感じられました。