- 肉体は、魂の仮の宿 P.1/2
- 「今がよけりゃいい」の生きざまは、霊界は許さない P.2/2
1.肉体は、魂の仮の宿 P.1/2
私たちの本体は魂なんです。その魂は何であるかというと、神様の分け御霊、言い換えれば大宇宙、生命体の一分子、そういうふうな存在なんです。
そして平等に神の子なんです。
ところが、過去のご先祖様から今日に至るまで、人間っていうのは、知らぬ間におかせる罪ということもあるんです。
また承知しておかしてる罪もありますよね。
なぜそういう罪ができるかというと、神様の魂の次元の心で営めば、そういうことないんですけれども、この三次元の世界は物象の世界。
そうすると、人間っていうのは、肉眼で見えた、物質化したこれが自分だという錯覚をしてるわけです。
この肉眼で見えてるこの肉体は自分じゃないんです。自分の本体の仮の宿なの。
要するに自分たちの本体は魂なんですよ。それの仮の宿なんです。この肉体は自分たちじゃないんです。
親神様が、神様の分け御霊をいただいてる私たちに、ちょうど人間が家を作るのと同じように、魂の家を、要するに肉体を私たちに与えてくれてるんです。
でもいつのまにか魂の住み家そのものに、心を配っていく姿勢が、本体の魂を見失っちゃった。
そして絶えず肉体の己ってものにとらわれてるから、やはりその肉体が少しでも満足するほうがいい。
そうすると、この世界は物質の世界なんですよ。物質を与えられることが、満足するわけですよね。
たとえば、お金が欲しいとか、名誉が欲しいとか、とにかくこの物質を満足させるもの。
三次元の世界では一生懸命、人間がそっちの方に集中してね、そういう喜びを求めてきちゃったんです。
だからいつのまにか、神様からいただいた魂が不在になっちゃってるの。
あるんですよ、あるんだけど、奥の方に引っこんじゃってるわけ。
で、表面に出てるのは、この肉体を通していろいろ作られた想念ね、たとえばお金持ちになりたいとか、偉くなりたいとかっていう考え方が基本になってね、
そうすると、もしお金持ちになりたいと、お金が欲しいなと思った時に、求め過ぎなけりゃいいんですよ。
物質の世界に住んでるんですから、そういうのを求めちゃいけないって私は言ってるんじゃない。その求めることが、魂を汚す、魂不在にするようなところまでいくと、これが罪になる。
じゃあ、どういうことかっていうと、ひとつ、形で申し上げますとね、商人をたとえとして、お互いに商売繁盛してほしいって思ってるわけです。
そうすると、両方が商売繁盛させるために競争するわけですよ。競争はいいんですけど、それが度が過ぎちゃうと、相手を落としいれたい、そういう悪い心が自然に働いちゃうんです。
どうしても自分のほうが繁盛したいっていうことに絶えず心がいってるからね、その自分が罪をおかしたことも気がつかない。
とにかく自分のお店を商売繁盛させるためには、人のお店の、ないことでも悪口言ってみたり、たとえば、あそこのお菓子が、どうのこうのって悪く評価して、こんな物を売ってる。なんていうようなことを言った場合に、お客さんの方は、それを本気にするでしょ。
そうすると、ま、極端に言いますよ。
ああそう、じゃあ、そんな毒物みたいなものが入ってるんじゃ、あの店にはもう買いに行かない方がいいや。というような気持ちを相手が起こしてしまうでしょう。
そうすると、これは完全に罪ですね。
自分のところ繁盛したいために、言葉を作ってでも相手を落としてしまう。
もしそれが真実でもあってもね、いいこと聞いた、これ真実なんだから言ってもいいんだなんて、相手のお店の悪口を言った場合、
自分の店を繁盛させるために、その相手の店の欠点を人に話すってことは、やっぱり人を落とすことになりますでしょう。
そういう行為が、人間にはある。いろんなところで行なわれてるんですよね。
たとえば偉くなるにしてもね、人を蹴落としても、偽っても自分が偉くなりたい。
そういった肉体を豊かにする名誉とか物質とか健康とか、すべてを欲しいんです、人間って。
肉体そのものが絶えず喜ぶものを、人間っていうのは、この肉眼で見える世界しか見つめてないから欲しいんです。
欲しいから、いろいろ罪をおかしてしまうわけです。これが悪い想念になっちゃうわけです。
だから気がついておかしてる罪もあれば、気がつかないでおかしてる罪もある。知らぬ間におかせる罪ということですけどね。
それでそういうのが悪い想念になって、今の私たちの生活状態ってものは、悪い想念を引きずった生活状態なの。
そういうふうに諸々、人を蹴落としてみたり、偽ってみたり、そしてすごく邪悪な心ね、欲の塊の心でもって過ごしてきた先祖は、結局霊界に行けば、この三次元の世界でいろんな自分の犯してきたことがよくわかるんですよ、はっきり言うと。
それで、ああすればよかった、こうすればよかったっていう思いがね、霊界から送られてくるわけですよ。
霊界っていっても幽界にいますからね、罪人になってるんですから、成仏してないんです。
ところがね、情けないかな、幽界ですごく自分が反省してるんだけど、結局四次元の世界には、それがとおらないんですね。
幽界から三次元にその思いを送ってくるだけでは、その悪い想念は消えないんですよ。
そうすると私たちは、その幽界で、ああすればよかった、こうすればよかったって、罪深い先祖の、結局、今現在なんですよね。
それは悪い想念を引きずって、まだ霊界に行けないで幽界にいるその先祖が、結局、
「こうすればよかった」
「ああすればよかった」
って反省している心を、現界の人、三次元の人に知らしめる形で、
体を悪くしてみたり、
商売を不振にしてみたり、
夫婦仲を悪くしてみたり、
悪い子供を授けてみたり、
お勤めしていて、なんとかして上司の人にかわいがられようと思っても、かわいがられなかったとか、
しょっちゅう落とされるとか、
なんか、いいことがない。
というのはね、結局そういう先祖が、自分で犯した罪ってものを、幽界から、ああしとけばよかった、こうすればよかったっていう念を送った形が、今の現状のいろんな悩みなんです。
その現状の悩みは、この三次元にいるそのご先祖の分身、要するに子孫がなりかわって、その幽界の人たちのお詫びをする、なりかわって反省することによってね、その幽界の先祖が成仏するんです。
ああ、うちの子孫が、わしになりかわって、こうしてくれた、お詫びしてくれた、感謝してくれたっていうことでね、やっとホッとして霊界に行けるんです。
だからどうしても、この三次元にいる私たちはいろんな悩み事がある。
というのは、先祖のそういう悪い想念を引きずってる私たちだからなんだと、先祖の悪い想念を打ち消さなければ、自分もそうだけれども、子孫も幸せになれない。そこに気がつかなくちゃいけない。
じゃ、そのためにはどうしたらいいかというと、いろんな行があるんですよね。
今おこなわれたこの鎮魂の行というのは、あなたがたはもともと神様からいただいた分け御霊を持ってるんです。その分け御霊の発露、要するに分け御霊を復活させる行事なの。
鎮魂、まず腹式呼吸して、それで精神統一に入るわけですよね。精神統一ってことはどういうことかっていうと、
神様の魂と自分の魂がひとつになる瞬間、大生命の霊体と自分の生命体がひとつになる瞬間ですね。そういう時間がこの鎮魂の中にあるんです。これがすばらしいんです。
そういう時間をたくさん重ねるごとに、自分では気がつかないかもしれないけども、だんだんだんだん魂が、神様からいただいた分け御霊の復活になるんです。
神様からいただいた分け御霊が復活されれば、あなたがたが全部神心になれるんじゃないですか。神心になれればね、この世に不可能はなくなるんですよ。
じゃ、神様からいただいた魂の心というのはどんな心ですか。あの本に「死ぬのは怖くない」に私は書いてあるはずですよね。
たとえば、まず素直ってこと、とっても大事なの。
一番基本は素直ですね。素直な心を持たなきゃ、まず絶対ダメです。
そして無限の愛を持つことね。その愛っていうのは、絶えず他を愛すことが己を愛すことなるんですよ。
ところが、その肉体人間にとらわれた感覚でいくと、自分のことばっかり愛してるから変な方へ行っちゃうわけ。
人を蹴落としてもとか、人をだましてもとか、肉体をとおして自分を愛すから、そういう変なことになっちゃうわけ。
愛とはそうじゃない。要するに博愛になんなくちゃいけない。自分のことというよりも、絶えず他を愛さなくちゃいけない。
たとえば自分のまわりの人とか、まわりにすごく苦しんでる人がいたなら、
ああお気の毒だな。あの人なんとか楽になれればいいな。って真剣になってその人に対しての楽になる行動をとるでしょう。これが愛なんですよ。
絶えずそういうふうに、外へ愛を向けること。自分の肉体を愛する根性になると、これ自我になるんですよ。
神様は愛でしょ。この地球上のすべてを神様は愛してる。そういう愛の心を、神様の分け御霊を、私たちはいただいてるんだから、できるはずなんです。
その愛の心ができないのは、今何回も繰りかえしてるように、先祖から今こんにちに至るまで、人を呪ったり落としいれたり感謝が足らなかったり、
そういう悪い心の塊が、悪い想念がいっぱいできちゃったから、神心がなくなってるんじゃないんだけども、奥の方へ引っこんじゃってるわけ。
それを何とかして、皆さん神心を平等にいただいてるんだから、その神心をね、何とかして復活させたい。それが神様のお考えなんです。
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